【2】 有 珠 山 噴 火 の 歴 史
※ 地質調査により新たな地層発見(洞爺湖町洞爺湖温泉ー立泉寺ー2001年10月ー)
1の様子
降灰があり、有珠近辺のウタリの家が焼け、5名が逃げ遅れて死亡。15日の大爆発では山 が真っ二つに割けて、有珠山の峰は大部分が吹っ飛んでしまった。7月末まで噴火が続き 降灰は海上50キロにも流れ、波打ち際から5キロが陸地のようになった。(虻田町史から)
4の様子
10日朝より14〜5回。夜に入っても30回程。
12日昼までに100回程。深夜2時頃、山が鳴動して鳥居から五、六十メートルばかり西の外
側から火が噴きだし、土煙を上げ、まさに晴天の霹靂。前代未聞。一同安全祈願の祈祷を
した。役アイヌも平アイヌも、めいめい太刀を抜き放って御山に向かって祈祷した。女や子
供は泣きわめき、親子の見境もなく逃げ惑う有様は目をおおうばかり。
3月20日再び噴火、21日夜大雨になり逃げ出した者達も皆我が家に帰った。
23日朝6時頃弁辺の仮り館で朝の勤行中に御山が鳴動。地響きは百千の雷が一度に
落下したかのよう。和尚は一心に安全の祈願をなされた。
召使の徳次が顔色を変えて報告に来た。今朝方、御山の鳴動は前々の百千倍にも激し
く、焼石、焼灰、猛火一面に溢れて長流川(長和)からフレナイまで、草木に至るまで焼き払 われた。虻田御詰合、会所、御用武器倉、御囲い米蔵、牧士の家々、御厩、アイヌの家等
数百棟(約90棟と推定)が一時に焼失し、広々とした野原になってしまった。アイヌも和人も
見分け出来ないほど焼け爛れ、あちこちに倒れ伏し、助けてよ、助けてよと泣き叫んでいる
煙が深くてどうにも出来ず、海辺を伝って一目散に走って来た。その他、アイヌや、馬・水鳥
に至るまで数知れず。
9の様子
さは3千メートルを超えた。
4月1日午前2時50分再噴火、今時噴火最大規模のM4.8の地震観測。
11時40分頃、洞爺湖温泉街に近い金比羅山西側山腹から新たな噴火始まる。同日午
後4時30分には黒煙が噴き上がり噴火の勢いが更に強まる。3日には町役場を閉鎖、 災害対策本部とともに豊浦町に全面移転(4月30日まで)。
4月4日午前8時30分、金比羅山で泥流、噴石を伴う噴火発生。泥流がふもとの洞爺
湖温泉街に達した。同日西山山麓に断層群が出現、翌4月5日には段差約10メートルの 隆起地形を形成(最大70メートル隆起)
避難は1市2町の住民16000人(噴火1ヶ月後)が8コ市町村54カ所で最長6ヶ月、仮
設住宅においては、2年間の仮住まいとなった。
噴火によって失ったものは多いけれど、貴重な経験を通してそれ以上のものを得、また
見えて来たものの方がはるかに多い。実に多くの愛と勇気と感動を得た。
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